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surah.translation
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ヤー・スィーン。同類の表現については、雌牛章の初めで説明した。
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アッラーは英明なクルアーンにかけて誓う。その前にも、後ろにも過ちはない。
使徒よ、誠にあなた(ムハンマド)は使徒の一人で、アッラーが僕に対して、単一であり礼拝の唯一の対象であることを教えるために遣わされた。
まっすぐな道の上にいる。このまっすぐな道こそは、偉力大かつ慈悲深いお方の在り方である。
まっすぐな道の上にいる。このまっすぐな道こそは、偉力大かつ慈悲深いお方の在り方である。
あなたは、先祖が警告を受けておらず、それで留意していない民に警告するのだ。アラブ人には預言者が遣わされておらず、かれらは信仰と一神教に不注意である。しかしそれは警告の発せられていない民族はすべてそうであり、使徒によってそれが発せられる必要があるのだ。
真実が使徒によって伝えられても、かれらの多くは信仰しないままなので、アッラーの懲罰が降ってくることとなった。アッラーもその使徒も信じないままで、到来した真実によって行動することはない。
かれらは信仰もなく、導かれてもいない。それを例えればかれらに首かせがはめられてそれが顎(あご)まであり、手もそこに結び付けられているようだ。そしてかれらの頭は上向きになり下には下げられないので、(真実が見られなくなり)アッラーを信仰することが妨げられて頭を下げての服従も叶わなくなっているのだ。
われらはかれらの前面に障壁を設け、背面にも障壁を設け、さらに、かれらに覆いをした。それでもう、かれらは真実を見ることができなくなった。かれらの不信仰の頑固さと執拗さが明確となったから、そうしたのだ。
ムハンマドよ、あなたが警告しても警告しなくても、かれらにとっては同じで、かれらはアッラーからの真実を信じない。
あなたは、この諭し(クルアーン)に従い、目に見えない慈悲深いお方を畏れる人に警告するだけで、かれらが受益するのである。だから、その人に赦しと偉大な報奨の吉報を伝えなさい。それは楽園に入るということに他ならない。
確かにわれらは、復活によって死者に命を与え、またかれらが(現世で)行なった善も悪も、かれらの足跡を記録する。そしてかれらの永続する施しといった善行や不信仰のような悪行を、われらはすべて明瞭な保存された記録の書板に数え上げるのだ。
使徒よ、その町の頑なな住民の話を、例としてかれらに示すとよいだろう。使徒たちがそこにやって来たときのこととして。
われらが2人の使徒を遣わしたとき、かれら住民は2人を嘘つき呼ばわりした。そこで、われらは第3の者で強化した。そしてかれら使徒たちは言った。確かに、わたしたちはあなたがたに、アッラーの唯一性とその定めに従うように呼び掛けるために遣わされた者である。
かれらは言った。あなたがたはわたしたちと同じ人間にすぎない。慈悲深いお方は何も啓示されてはいないのだ。あなたがたは嘘をついているだけだ。
かれら3人の使徒たちは言った。わたしたちがあなたがたに遣わされた者であることは、わたしたちの主がご存知だ。それで十分な証拠である。
わたしたちの務めは明らかな啓示の伝達のみである。あなたがたを導く者ではない。
かれら(住民)は言った。わたしたちにとってあなたがたは不吉な兆候だ。もし止めないなら、あなたがたを石打ちにするだろう。そして、わたしたちからの厳しい苦痛が襲うのだ。
かれら使徒たちは言った。あなたがた自身が不吉な兆候で、あなたがたは諭されているのに、それを拒否するからである。アッラーを想起して、何が不吉な知らせであるのか、熟慮しなければいけない。あなたがたは使徒に反して、あまりに掟破りの民なのだ。
そのとき、町のはずれから一人の男が、人びとの不信仰と使徒殺害の脅かしを恐れて、走って来て言った。人びとよ、これらの使徒たちに従いなさい。
あなたがたに何の報酬も求めない人に従いなさい。かれらは正しく導かれている。こういった人びとの言うことには、従うべきだ。
この善意の男は言った。わたしを創った方に仕えないなど、どうしてできるでしょう。あなたがたも復活の後には、かれに帰されるのです。
創造主のアッラーを差し置いて他の神々を配することができるでしょうか。もし慈悲深いお方がわたしに災いを望むなら、神々の執り成しは少しも役に立たず、またアッラーが意図された懲罰からわたしを救うこともできません。
そうしたら明らかに価値のない神々を崇めたことになり、わたしは間違いを犯したことになります。
人びとよ、わたしは、あなたがたの創造主を信じます。殺されるという強迫を恐れません。しかしかれらの殺害は敢行されたので、アッラーはかれを楽園に入れたのであった。
かれは天使から、殉教者として楽園に入りなさいと言われた。そこへ入って後に、かれは言った。罪が赦されることや、わたしに与えられた報奨を、人びとが知っていればよかったのに。そうすれば、かれらもわたしと同様に信仰し、わたしのように報いられていただろうに、と。
かれは天使から、殉教者として楽園に入りなさいと言われた。そこへ入って後に、かれは言った。罪が赦されることや、わたしに与えられた報奨を、人びとが知っていればよかったのに。そうすれば、かれらもわたしと同様に信仰し、わたしのように報いられていただろうに、と。
かれの後、われらはかれの民に対して、天から軍勢(天使たち)を遣わす必要はなかった。それよりも簡単な話で、空からの一声ですんだのだ。懲罰の天使たちを送ることもなかったのだ。
ただ一声叫ぶだけで、かれらは消え失せてしまった。後には何も残らなかった。例えれば、それは燃えていた火が、跡形もなく一瞬にして消え失せたようなものだ。
ああ、拒否してきた哀れな僕たちよ。処罰のある復活の日には、かれらは惨めな状況に出くわすこととなる。この世では、かれらは使徒が来るたびに笑い草にしていたからだ。だからかれらの結果としては、義務を無視したことへの復活の日の後悔でしかないのだ。
かれらは気付かないのか。われらがかれら以前に多くの世代を滅ぼし、かれらはもう二度と帰ってこないということを。むしろかれらは、先立つ所業の結果を目にしたのであって、アッラーの報いを目の当たりにしたということである。
確かに復活の日には、ひとり残らずわれらの前に招集される。そして所業に対する報いを受けるのだ。
かれらへの復活の真実を伝えるための印の1つには、この乾いた不毛な大地がある。そこへは雨を降らせて、われらがそれに種々の植物を育てて、人びとが食べるための穀物を成長させる。雨を降らせて植物を育てるお方は、容易に命を与え、また復活させるのである。
またわれらは雨を送った大地に、ナツメヤシやブドウの園を設け、その間に灌漑をする泉を涌き出させる。
かれらはその果実を食べるが、それはかれらの手が作り出したものではない。それらはアッラーの恵みであり、豊かな糧と慈悲の賜物である。それでもかれらは、かれのみを礼拝し、その使徒を信頼して、感謝しないのか。
かれの栄光を称賛する。かれは大地に生える植物や人びとをすべて雌雄に創り、その他すべてを大地、空、その他の所に人が知らないままに創造された。
また、かれらへの唯一性の印の1つには夜がある。われらが夜から昼を退かせると、かれらは真っ暗闇の中にいるのだ。
また、かれらへの唯一性の印の1つには、太陽がある。それはアッラーの定めに従って、ある一点までは動いて、それ以上を越えることはない。それは偉大なお方の定めであり誰の挑戦も受けず、そのお方からは何事も隠すことはできないのである。
また、かれらへの唯一性の印の1つには、夜ごとに変化する月の周期を定めたことがある。小さいのが大きくなり、また再び小さくなる。それはナツメヤシのねじれた古枝のように細くて黄色の三日月になって戻る。
太陽、月、夜や昼といった印は、アッラーの予めの定めに従う。定められたよりも先を行くことはない。太陽が月に追い付いて、その光を奪うことはなく、夜は昼の先を越すことはできない。これらすべての星々や星座は、強制的であるかそうでなくても、アッラーのお定めに従って運行されている。
アッラーの唯一性とその僕への寵愛の印の1つは、われらがヌーフの方舟でアッラーの被造物を洪水の中から救ったことである。アッラーはその中で、すべてを雌雄の対で運ばれた。
アッラーの唯一性とその僕への寵愛の印の1つは、われらが人びとのために、ヌーフの方舟のような乗り物を創ったことである。
われらが望むなら、ヌーフの民のようにかれらを溺れさせることもできた。そうなれば、かれらを助ける者はなく、またかれらは救われないのだ。
ただし、われらの慈悲による定められた束の間の享楽は別として。それを越えることがないのは、かれらがそこに教訓を得て、信仰を持つためである。
偶像崇拝者らが信仰を拒否したので、来世を思い、その困難を明記するように告げられた。あなたがたの前の来世と、後ろにある現世を意識しなさい。そうすればあなたがたは慈悲にあずかるでしょうと。しかしかれらは抵抗して、何も留意しないで背いたのであった。
かれらの主からの唯一性とかれだけが礼拝に値するという数々の印が届いても、かれらはそれから背き去った。
また、アッラーがあなたがたに授けたものから施しなさいと言われると、不信仰な人びとは言う。もしアッラーが望むなら、かれがその人を養うはずなのに、どうしてわたしたちが養うべきなのか。われわれはアッラーの意思に反することはしない。あなたがたは明らかに誤っており、真実から離れている。
またかれらは復活が虚偽だとして言う。あなたがたの言うことが真実なら、この約束の審判はいつなのか。
かれらは一声の叫びを待っているにすぎず、それは最初の一吹きのラッパが吹かれる時である。かれらを突然襲う。かれらはその時まで、売買、耕作、放牧など世俗の業にいそしんでいるのだ。
その時、かれらは遺言することもできず、また家族のところに帰ることもできない。そして世俗の業にいそしみつつ、生命を落とすのである。
そしてラッパが再び吹かれると、かれらは墓場から出て、かれらの主の御元に急ぐ。それは清算と報いのためである。
かれらは悔やんで言う。ああ、情けない。わたしたちを墓場から呼び起こしたのは誰だ?かれらはそれに対する回答を得るだろう。これは慈悲深いお方が約束したことであり、間違いなく起こることだ。使徒たちは主からのメッセージとして、真実を語ったのである。
ただ二回目の一声の叫びが鳴り響けば、かれらはひとり残らずわれらの前に招集される。それが復活の日に起こることである。
その最後の審判の日、誰も不当な扱いを受けず、あなたがたは自分の行なってきたことに対して、悪を増やし、善を減少させられることはない。この世でしてきたことについて、十全の報いを受けるのである。
確かに楽園の仲間たちは、この日、喜びに忙殺される。他の人のことを考える暇はなく、永遠の恵みと途方もない成功を目にするのである。
かれらはその配偶者たちと、木陰の寝床によりかかりっている。
そこでかれらには、ブドウ、イチジク、ザクロといった果実やかれらが望むものであれば、どんな恵みも与えられる。
こういったこと以上に、平安あれ、との言葉も、慈悲深い主からある。その言葉を聞いた時には、あらゆる側面で彼らは平安と安全を得ることとなる。その言葉は、あらゆる挨拶を超越したものである。
復活の日には偶像崇拝者たちは言われる。罪人びとよ、今日あなたがたは信者からは離れて控えなさい。かれらとの報奨の違いはあまりに大きく、またかれらの特性との違いも大きい。
使徒たちを通じて、アーダムの子孫よ、不信仰を抱いて罪をなして、悪魔に仕えてはならないと、われはあなたがたに命令した。悪魔はあなたがたの公然の敵である。理性ある人がどうして敵対心をあらわにした者に対して、従うことができるのか。
アーダムの子孫たちよ、あなたがたはわれだけに仕えなさい。そして何ものも並置してはならないのだ。それこそが正しい道である。それがわれの喜びであり、そうして楽園に入ることができるのだ。しかしこの点については、あなたがたはわれの助言と命令に従わなかった。
確かに悪魔は、あなたがたの大部分を迷わせた。どうしてあなたがたは理性をもって悟らなかったのか。そして主に従いかれのみを礼拝し、明らかな敵である悪魔に従わずにおかなかったのか。
これはあなたがたに、現世の不信仰に対して、約束されていた地獄である。それは幽玄界の事柄であるが、今日はそれを自分の目で見ることができる。
あなたがたは信仰を拒否してきたので、今日以降、永遠にそこで焼かれなさい。
その日、われらはかれらの口を封じる。そうするとかれらの不信仰や罪を否定することはできなくなり、その代わりその手がわれらに語り、かれらの足はかれらが歩いてきて稼いできたことを立証するのである。
われらが望むなら、かれらの口封じをしたように、両目を盲目にできる。かれらは道を先んじて楽園に行こうとするが、どうして視界なしにそれができるのか。
われらが望むなら、かれらをその場所で変形して、座らせることもできる。そうなれば、かれらは進むことも戻ることもできない。
誰でもわれらが長寿させる人には、われらは創造を逆転し、弱い時代に戻せるのだ。それでもかれらは、現世は永劫ではなく、不死ではないことが分からないのか。来世こそは、永久である。
われらはムハンマド(平安を)に、詩を教えなかったし、またかれは詩人にふさわしくなかった。それはかれの自然ではなかったし、その性格上必要としなかった。かれに教えたのは、これは訓示であり、思慮ある人びとのための明瞭なクルアーンである。それは詩ではないのだ。
クルアーンは命あり、理解ある者のためであり、かれらがそれから益を受けるのだ。またそれは、不信仰者に対しては口実を与えることなく警告をあらわにし、懲罰を与えるためである。
かれらは見ないのか。われらがかれらのために創った家畜を。かれらは必要に応じて、それを活用している。
われらは家畜をかれらに従わせた。それらに乗ったり、荷物を運んだりする。そして何人かは、その肉を食べる。
また、乗ったり食べたりする他にも、かれらのために役に立つ羊、ラクダ、山羊の毛があり、それでかれらは家具や衣類を作る。また乳もある。それでもかれらは、こういった恩寵を賜るアッラーに感謝しないのか。
マッカの多神教徒たちはアッラーを差しおいて、他に神々を選び、何とか助けられようとする。
それらの神々はそもそも助けられず、ましてアッラーに代えて祈る人びとを助けることはない。それらの神々を崇拝した者たちは偶像と共に懲罰に会い、しかし互いに無実を訴えることとなる。
使徒よ、あなたはかれらの言うことで、悲しんではいけない。あなたは使徒として送られたのではないとか、あるいはあなたは詩人であるとか、中傷に惑わされることはないのだ。確かにわれらは、かれらの隠すことも現わすことも知っており、それに報いるであろう。
復活を拒否する人間は考えないのか。われらは一滴の液体からかれを創ったことを。それから異なる段階を経て、誕生し、発達した。それなのにかれらは公然と議論し論争して歯向っている。熟慮して、復活は可能であるとの結論を得ることがないのか。
また、かれは不注意で無知で、われらに例えを示すけれど、かれ自身の無からの創造を忘れている。かれは言う。誰が朽ち果てた骨に命を与えることができるのか。
ムハンマドよ、かれらに言いなさい。最初に骨を創った方が、かれらを生き返らせるのだ。初めに創造したのだから、それらに命を再び与えることは不可能ではない。かれ(賛美あれ)はすべての創造物を知り尽くして、隠されるものはないのだ。
緑の木を創るものがあり、その木からあなたがたが火を起こすことができる。そして、そのものは緑の木の湿りと起こされた火という対立する二つを混在させている。こうして、そのものは死者を復活させることができるのである。
壮大な諸天と地を創造したかれが、死者を蘇らせることはできないのか。いうまでもなく、それは可能なのだ。かれこそは、すべての創造主であり、かれこそは全知者である。
アッラーの権威と荘厳さは、かれが何かを創造しようとすると、有れという命令で、それは有るのだ。命を与えようとするかれの意図は、死ももたらし、同様にそれを復活もするということでもある。
その御手ですべてを支配するかれにこそ、すべての賛美あれ。偶像崇拝者たちが非難するような不可能なことはない。すべてを超越する権威があり、望むままに行動される。すべての鍵はその両手にあり、来世ではあなたがたはかれの御元に帰される。それはあなたがたの所業への報奨のためである。