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1 アッラー*とその使徒*を差しおいて、宗教に関わる物事を勝手に決めたりしてはならない、ということ(ムヤッサル515頁参照)。
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1 一説にこのアーヤ*は、マディーナ*にやって来たベドウィンたちが、預言者*の部屋の外から「ムハンマド*!ムハンマド*!」と呼んだことに関して下った(アッ=サァディー799頁参照) 。
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1 ここでの「放逸」さの意味には、「噓つき」「自分の罪を公(おおや)けにする者」「アッラー*に対して羞恥(しゅうち)心を抱かない者」といった諸説がある。尚、放逸であることが確定した者の情報・伝承は、例外的なものを除いては受け入れられないということで、学者間の見解は一致している(アル=クルトゥビー16:312参照)。 2 このアーヤ*は、ワリード・ブン・ウクバが浄財*の徴収(ちょうしゅう)のため、ムスタラク族へ遣わされた際の出来事に関して下ったとされる。ムスタラク族が浄財を渡すことを拒んだというワリードの誤った報告により、ムスリムたちは危うく彼らを攻撃しそうになった(アフマド18459参照)。
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1 アッラー*とその使徒*の裁決へと招き、その裁決に満足させよ、ということ(ムヤッサル516頁参照)。 2 「アッラー*のご命令」とは、アッラー*とその使徒*の裁決のこと(前掲書、同頁参照)。
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1 人間が真に徳とすべきことは、大方の場合において嘲笑(ちょうしょう)の対象となる姿形、地位、状況といった表面的なものではなく、心の中に秘められた内面的なものである。ゆえに人は、もしかするとアッラー*の御許では自分よりも徳の高い者であるかもしれない他人を、無闇(むやみ)に蔑(さげす)むべきではない。そうすれば彼は、アッラー*の御許で高い地位にある者を蔑むことにより、自分自身を害することになるからだ(アブー・アッ=スウード8:121参照)。預言者*は、こう仰(おっしゃ)っている。「本当にアッラー*は、あなた方の姿や財産をご覧になるのではない。しかし、あなた方の心と行いをご覧になるのである。」(ムスリム「善行と血縁の絆と礼儀作法の書」34参照) 2 他人が「あなた方自身」と表現されているのは、「同胞を中傷した者は、自分自身を中傷したも同様」で、「他人を中傷する者は、大抵、自分自身も相手から中傷されるから」(アッ=ラーズイー10:109参照)。 3 信仰に入った後に、これらの罪を犯す者は「放逸な者」である(アル=カースィミー15:5461参照)。
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1 同胞に対する悪い「憶測」のこと(ムヤッサル517頁参照)。 2 イスラーム*における「陰口(ギーバ)」とは、その内容が真実であったとしても、陰で「自分の同胞について、彼が嫌に思うことを話すこと」である(ムスリム「善行と血縁の絆と礼儀作法の書70参照)。 3 人の尊厳を傷つけ、人を覆(おお)い隠している尊厳を奪(うば)い去り、反論できない状態で攻撃することが、人の肉体そのものをバラバラにし、身体の要(かなめ)である骨を露出させ、死体に対して口でなぶるという、忌まわしい行為に例えられている(アル=ビカーイ7:361参照)。
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1 全人類はアーダム*とハウワーゥ*という同一の祖先を有し、かつ男性と女性を介して生まれる(アッ=サァディー802頁参照)。
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1 ここで言及されているのは、信念に満ちた心、純粋な意図、安心感を伴(ともな)う正しい信仰ではなく、殺害や捕虜(ほりょ)となることへの恐怖や、施(ほどこ)しを得ることへの願望などが理由でイスラーム*を受け入れた、ある種のベドウィンたちのこと(アッ=シャウカーニー5:90参照)。 2 一説に、このアーヤ*で言及されている「信仰」とは、「心による信念、言葉による承認、身体による行為によって服従すること」。であり、「服従」とは「信念はなくても、言葉による承認と、身体による行為によって、表面的に服従すること」。この場合、このベドウィンたちは偽(にせ)信者*となる。別説によれば、ここでの「信仰」は、「完全なる信仰心」のこと。この場合、彼らには信仰心が存在することになる(アッ=シャンキーティー7:419-420参照)。
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1 彼らの「自分たちは信仰者だ」という主張は、全知者であるアッラー*に対する無作法か、あるいはその言葉によって現世的な利益を意図しているかのどちらかである(アッ=サァディー802頁参照)。
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1 自分たちが服従(イスラーム*)を受け入れた、という主張のこと(アッ=シャウカーニー5:91参照)。